「シン・ゴジラ」を観た
結局さ、ポケモンGOもシン・ゴジラも(なんならオリンピックも天皇陛下のお言葉も)同じなんだよな。
その作品の内容の良し悪しが問題なのではなく、「語るに値する」作品であることが重要なのだ。
その語るに値する作品を同時代に語ることをひとはお祭りと呼ぶのだ。
今風の言葉で言うのならば、「乗るしかない、このビッグウェーブに」というところ。
きっとめぞん一刻が連載されていた時もそうだっただろうし、ビートルズやあさま山荘事件もそうだっただろうし、かつてのそして4年後の東京オリンピックもそうだ(った)ろうし、そしてもちろんはじめのゴジラという作品がこの世に産み落とされた時もそうだったのだろう。
後世に残るのは作品の良し悪しだが、それを摂取し共有できるいまという瞬間には間違いなく魔法がこもっている。
と、シン・ゴジラを観にいったおれは思ったのだった。
あともうひとつ。
これが東京だ、とも思った。
きっと関西にいた頃のおれが観ると満足度はまた違っていただろう。
知っている場所が今そのままの形で蹂躙されていく姿はまさしく拡張現実であった。
きっとNYのひとたちはハリウッド映画を観て同じような気分になるのだろうし、それが邦画で体験できることが感慨深い。
そして、これが地域格差のひとつの顕れでもある。
ゴジラは高知には上陸しないのだ。おそらく。
「人類が知っていることすべての短い歴史」を読んだ
宇宙、地球、生命、人類について述べた本。
いろいろなことが明らかになるまでの道のりをストーリー仕立てに読みやすく興味深く描いている。
特に宇宙、地球の章が面白かった。
ほとんどの発見は1800年以降に行われていることが興味深い。そしてアインシュタインは本当の意味で天才だ。
わたしたちはまだなにも知らないということを再認識させてくれる。
こういう本を読むたびに思うことがあって、それはわたしたちの歴史がほんとうの意味で始まったのは中世以降、ルネッサンスからだということだ。
それまでの文明はあまりわたしたちが石器時代について述べるのと変わらないのではないかという感じがする。
そういう意味で古代ギリシャはとてつもない時代だった。もし古代ギリシャのまま進み、キリストが生まれなければ今私達の文明は西ローマ帝国が滅びる400年から1400年までシームレスにつながり1000年前倒しに発展していたのでないかとすら思ってしまう。
キリストは「愛」という思想を発明したが、その思想は悪用され1000年間文明を停滞させてしまった。
私たちの文明はまだはじまったばかりだ。
「ズートピア」を観た
group_inou「THINKER」@キネマ倶楽部 にいった
初のキネマ倶楽部。一度踊ってを焦がした約束の地。しゃれおつ。舞台上の考える人もしゃれおつ。
しかしあまり体調が振るわず。無念。
なんとなくこのあいだのピープルとのツーマンの方が楽しかったなあ。
そういえばDAYのリリースツアーのときも同じような感想を抱いたのを思い出した。
そしてたしか次のライブで死ぬほど楽しいってなった記憶。
inouの問題というよりはこちら側の問題のような感じがしますが。
だがそれにしてもMONKEYは震えたけれども。好き。
しかし思い出してもBLUEとかCATCHとか楽しみにしてたのに楽しめなかったの悲しい。
あとおれはBPAが聞きてえよ。
再戦を誓う。
ズートピアがほぼほぼCATCHのPV説むちゃくちゃ笑った。
ズートピア観たい。観よう。
People In The Box「Renaissance」@渋谷クアトロ に行った
子供たちをやったので神でした。@総括
ラブリータブース発売から早5年目。足繁く通ってようやく聞けたぜ逆さのベーゼンドルファー。
手紙も素晴らしかった。夏が来るね!緑の夏が!
というか今回のセトリ固定して年1でやってくれ頼む。
次はJukeboxか!4か月連続いけるかな!行けそうだな!
サイレンやってほしいけど途中経過で入っていなかった。みんな好きじゃないのかよサイレン。おれは好きだ。
まあでも6月に6月の空を照らすは聞きたいよね。あと6月だけど八月はいつも聞きたいよね。
「ちはやふる 下の句」を観た
上の句の4倍おもしろい映画でした。
上の句は下の句のためにあったのだ。
まあきっとおれが天才が天才でいられない話というのが結構好きだからという説はありますが。
天才無双好きには物足りないのかも。たしかにちはやちゃん一回も勝ってないよ!?と言われたらそうだったかとなる。
しかしそんな広瀬すずの魅力を上書きして有り余る松岡茉優である。というかこれはもはや松岡茉優の記録映画。可愛すぎる。すばらしい。蹴られたい。
鑑賞後に話した内容では、上の句は視覚効果をうまく使っていてそれが面白かったという話であった。
でもおれが思うにおそらく監督は下の句の天才が天才でいられないエピソードをこそ書きたくて、そのための前座として上の句を作ったのだ。
そしてその上の句で離れさせないための技として視覚効果をうまく使ったのだと思う。
技術の上の句とストーリーの下の句。
論理的でなかなかよろしいのではないでしょうか。
こういう作品でありがちなのは仲間を思う主人公は正しい、という構図だ。
千早は新のために新のためにと言葉を重ねる。
そして孤立していく。
通常ならば周りは主人公を正しいと認め(折れ)、協力した結果、なんやかんやあって新君が転校してきてかるた部に入り、過去の最高タッグ誕生イェーイ!という展開になるものだが、そうはならず、主人公側が折れて頭を下げるという展開が新しかった。
これは原作の良さなのかもしれないけど。
仲間を思っているはずのやつが周りが見えていないという入れ子構造、なかなかおもしろい題材だ。そしてそれを綺麗に見せ切っていると感じた。
あとなんだかんだで肉まん君が最強だよね。良改変でしょう。最強の脇役だ。
なんとかちゃんも全後編見てたらちはやちゃんよりかわいく見えてきてなるほどなるほど、と思った。
あと太一君ヘリーハンセンとか金もってんなー。とそういう設定だったかそういえば。新君のバッグはウィルダネスであった。