「シン・ゴジラ」を観た
結局さ、ポケモンGOもシン・ゴジラも(なんならオリンピックも天皇陛下のお言葉も)同じなんだよな。
その作品の内容の良し悪しが問題なのではなく、「語るに値する」作品であることが重要なのだ。
その語るに値する作品を同時代に語ることをひとはお祭りと呼ぶのだ。
今風の言葉で言うのならば、「乗るしかない、このビッグウェーブに」というところ。
きっとめぞん一刻が連載されていた時もそうだっただろうし、ビートルズやあさま山荘事件もそうだっただろうし、かつてのそして4年後の東京オリンピックもそうだ(った)ろうし、そしてもちろんはじめのゴジラという作品がこの世に産み落とされた時もそうだったのだろう。
後世に残るのは作品の良し悪しだが、それを摂取し共有できるいまという瞬間には間違いなく魔法がこもっている。
と、シン・ゴジラを観にいったおれは思ったのだった。
あともうひとつ。
これが東京だ、とも思った。
きっと関西にいた頃のおれが観ると満足度はまた違っていただろう。
知っている場所が今そのままの形で蹂躙されていく姿はまさしく拡張現実であった。
きっとNYのひとたちはハリウッド映画を観て同じような気分になるのだろうし、それが邦画で体験できることが感慨深い。
そして、これが地域格差のひとつの顕れでもある。
ゴジラは高知には上陸しないのだ。おそらく。