目[mé]「非常にはっきりとわからない」はなにがすごかったのか,解説する
2019年11月23日,千葉市美術館に目[mé]の展示「非常にはっきりとわからない」を観に行きました.
展示を見てあまりの衝撃に我を失い,たまたま会場で会った目の方に超良かったですといきなり話しかけ,そのままの勢いで周囲のひとたちに「あの展示はマジで超すげえから見に行け」と広め,12月7日に再度訪問,やっぱすげえ~~となったりしていました.
そして新年明けて1/4,友人との新年会で「で,あの展示はなにがすごかったのか?全然わからなかった,いってみろ」となりました.
これマジで超驚いたんですよね,全員にひと目で伝わると思って勧めたので.
でも色々話して確かにと思ったので,思考整理がてらまとめてみます.
会期中ネタバレ禁止だったけど会期終わったから多分大丈夫だよね.
今回の目の展示は千葉市美術館の7階と8階を使って"全く同じ展示"を見せるものでした.
展示自体は美術展の準備風景という感じ,いろいろな作品が用意されている途中で,まだビニールが掛かっていたり,台車が転がっていたりしています.
そしてその準備最中の様子が7階と8階で完全に一致しているというものでした.展示されている絵から寝転がっている人から,落ちている手袋まで.全く同じ場所に存在しているという具合.
私は7階をはじめに見たあと8階に行き,はじめの部屋で完全に理解したのですが,わからなかった人が陥ったパターンに「間違い探しかと思う」というのがあったようです.
もちろん今回の展示は間違い探しではありません.千葉市美の構造をうまく使って「完全に同じものを展示する」という展示でした.ではこれのなにがすごかったのでしょうか.
今回の展示はこの世で本来ならば見られるはずのない「特異点」を作り出したものである
本来,この世に同じものってふたつと無いんですよ.同じ場所はないし,同じ風景を見られることはない.
つまり,今回の展示は「この世に存在し得ないものをつくった」ものでした.
これがまず第一にして一番大きな成果だと考えます.
私たちは見られるはずのないものを見た感動で打ち震えたのです.
しかもこの展示に再現性はありません.たまたま千葉市美の構造的に可能だったから実現したもので,他のどんな土地で可能な展示ということもない.まさにあの場所にあの期間,たまたま存在した特異点だったのです.
そしてその「本来存在し得ない一瞬」を同時に2箇所に存在させていることをわかりやすくするために,今回の展示は,美術展の準備風景を描いたものでした.
これが「美術展」だったらわんちゃん存在し得るんですよね,美術展はホワイトボックスの中で整然と作品が並べられるものなので.どこでも同じ鑑賞体験を得られるようになされている.
ただ準備途中となると違います.いわば完成に至るための途中経過,不確実性の連続です.意図せず放り投げられた部材に,雑然と並べられたダンボール,そういう誰にも顧みられないこの世に二度と存在し得ない一瞬の風景なのです.
(途中であること,また同じものであることを強調するために,展示されている作品のひとつは時計を使った動き続ける作品でした)
目はこのような展示を以前にも行っています.
昨年の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」では全く同じ"岩"を作り展示していました.
今回の展示はそれのより拡張と言えると思います.
では作者はこの作品でなにを表現したかったのでしょうか.
私はそれを「日常に対する違和感」だと考えます.
私達の立つ現実は基本的に他の環境との「相対性」によって成り立っています.
自宅は駅から南に歩いて10分だし,下に7階あるので8階だし,昨日があるから今日なわけです.
そして,特別な日は日常との対比で成り立ちます.普段家で食べているから外で食べる夕飯は特別だし,外国旅行が特別なのは日本で過ごす日常との対比なのです.
普通私達はその日常をなんの違和もなく日常として受け取っています.
しかし,目の荒神明香はその日常に疑問を挟みます.以下,会場で入手した過去の出版物より引用です.
高校生の頃。夕食の時間、家族と向き合ってご飯を食べているとき、その光景をあまりに見慣れすぎたせいか、自分が本当にここにいるのかがわからなくなったことがある。(中略)繰り返し繰り返し、同じ時間に同じ人と、同じ行為をする。それが当たり前であるほど、反対におかしく思えてくる。このまま戻ってこれない気がして、とっさに「私ってここにいる?」と母に確認した。
まさに本来ならば普通気にもとめない日常への懐疑を覚えたエピソードと言えるでしょう.
日常はなにによって作られるのか?わたしたちが日常だと疑問なく受け取っている日常はなにによって生まれるのか?
その疑問を表明するアプローチが今回,「同じ日常をふたつ作る」という作品になったのだと考えます.
7階も8階もそこがどこかわからないよう階数表示などが慎重にマスキングされていました.
同じものをふたつ作ったときにさっきまでなんの違和感もなく存在していた日常が,相対することができずに異常に転換する.日常が揺らぐ瞬間を作者たちは作りたかったのだと思います.
つまり,今回の展示の最も正しい見方は「あれ?ここ7階,で合ってるよな?」なわけです.「おれ今どこにいるんだ?」
ではなぜこの作品は「間違い探し」だと思われたのでしょうか.
それは観測者の「日常に対する解像度」の問題だと考えます.つまり日頃,どれだけ日常に目を向けているか.
この解像度というのは,人によってどこに向かっているかが違います.
私はゲームが詳しくないのでゼルダの伝説BoWをやっても,普通に面白い作品だな、となるのですが,長年やっている人にとっては震えるほどの超すごい作品になるわけです.いままでこんな自由でつくりこまれたオープンワールドはなかった.この「いままで」という視点が解像度です.
新海誠の天気の子が、普通に見ると「まあ私は君の名はの方が好きかな」となるのが,ゼロ年代サブカルチャーを通っている人からみると,背後のいろいろな文脈があっての天気の子だと判って衝撃を受けるのも同じです.
今回の展示は「日常に対する違和」を示すものだったと上記しました.
しかし,この日常に対する解像度の違いにより,この展示は間違い探しに成り下がります.
曰く,「同じ空間がふたつあることがそんなにおかしなことか?」
日常に普段から目を向けていると同じ空間がふたつと存在することは異常になるのですが,特に意識してみていないと同じ空間がふたつ存在することも日常の中に取り込まれてしまうのですね.日常に対する対比構造が成り立たない.
そして,もう一つの理由が(おそらくですが)目の作者たちは,わかりやすく"伝えようとして"作っていない,ためであると考えます.
つまり,「日常ってふたつあるのって異常ですよね???」ではなく「私,こういうの変だと思うんですけどどうですかね」,くらいの感じなんですよね.感覚を押し付けていない.違和の表明くらいにとどまっている.
このある意味,慎ましい姿勢がわかるひととわからないひとをより生み出すことになったのではないかと考えます.
ただ,ひとつ断っておくとこれをわかりやすく伝えるかどうかというのはアーティストの責務ではないのですよね.アーティストは自分の創作衝動に従って作品をつくるもので,作品の基準はどう見えるかではなく,どれだけ本質,コアに近づけているか,が優先されます.なので,それをどう見せるかはまた別の話になります.
作品をどう見せるかは,アーティスト本人ではなくどちらかというとキュレーターやプロデューサーという立場の人の仕事です.
また天気の子の話に戻りますが,自分のやりたいことをただやろうとする新海誠とそれを一般視聴者にわかりやすく伝わるよう変換する川村元気の関係です.
(まあ演劇や映画は観る人のことを想定して作られるべきなのでまた話が少し違うのですが)
話が脱線しましたが,今回目は自分の中の違和の提起くらいに留まっているのも今回の展示を分かる人とわからない人ができた原因だと思います.
最後に少し自分の話をしますが,私が今回の展示をわかった(と感じた)のは私もおなじように日常に対する視点を対象とした作品を作り,たまたま解像度が高かったために過ぎないと思います.
(現ア集という団体で,「日常からのずれ」をテーマに,ルンバを神の使いとして登場させたり,ベルトコンベアで食パンを流したりする演劇をしています)
この解像度は生来的なわかるひと,わからないひとではなく,ただその方向に目が向いているかの違いでしかありません.
ただただみる絵画と歴史を勉強した上で見る絵画が全く違う見え方をするのと同じです.
目は前身の「wah document」からずっと日常に対する視点をテーマに作品を作っています.
私は特に「グランドにお風呂」と「照明器具を飛ばす」が好きです.
wah documentを知ったときには活動を停止していてとても悲しい思いをしましたが,今彼らが目という形態で作品を作り続けている時間を共有できるのをとても嬉しく感じます.
これからも様々な作品を見られるのを期待しています.
(そして願わくばいつか一緒に作品を作れれば嬉しいなと思います,というかwah document継ぎたい)
目へのラブレターを最後に記して,本記事を終えたいと思います.
読んでいただきありがとうございました.